昭和52年12月26日 朝の御理解



 御理解 第92節
 「神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅 いにかかわるぞ。」

 昨日は丸少の感謝の夕べで、皆さんほんとにあの丸少の方達が、ああした生き生きとした活動がでけておる、その模様を、結集して、昨日の感謝の夕べに表したわけです。そりゃあなるほど、面白いとか上手とかというようなことだったら、テレビでも見とったほうが、よっぽど面白いでしょうし、ですけれども、あの子供たちが一生懸命に、その様々な催しに力を合わせて、あれだけのことができておるということ。それに父兄の方達が協力して、まあできるわけです。
 高橋さんが、あの幹事長をしておられるので、一番初めにご挨拶をされました。その中に、今、大会社で、大きな会社で採用する時には、その頭が良いとか学業が優れておるということには焦点を置かないということね、その様々なグループ活動に、その力をかなえて行けれる人材、例えばいろんなグループがありますね、そのグループでその人間関係、様々な一つのことを、成してゆくことに、そこに協力ができるという、そういういうならば人間性というかね。
 頭脳ではなくて、その人間ができておると、どう言う所に出しても、まあこげな言葉(笑)で言うと、媚べらないと言うんですかね。どう言う所に出しても媚べらない、その人物を求めると言う様な意味で、まあ父兄の皆さんも、こうして「合楽、合楽」と言うて子供たちが参りますから、どうしても学業のほうが疎かになったりしがちですけれども、まあそういう意味合いで、心配はいらんと思うと言う様な言を、まあ言っとられましたが。私それを聞きながら思ったんですけれども。
 そういう例えば、あの丸少なら丸少に、一途になら子供たちが励むと言う事は、とりもなおさずそのまま子供、という信心に心を向けると言う事なんだから。これは人間の例えば勉強すると言うても、技術を身につけると言うても、あのやはり幸せになりたい、幸福になりたいというのが念願で、やはり勉強もすりゃあ技術も身につけるのです。ですから結局なら幸せの鍵を握ってござると言う言が、神様だと確信でけたらです、もうそげなことは問題じゃないですね。
 合楽通いのために勉強がでけんとか、成績が悪くなったとか。昨日稲垣さんがお届けをいたしておられましたが、あの私の方のまあ高校に裕美子さんていうのが、高校今行っておりますが、中学から高校に上がる時に、先生が「この人は、もうどこの高校を選んでよいか分からん。どこでんじゃできません」と言う様な程度の学業じゃった。ところが「合楽、合楽」と言うて、一生懸命打ち込んで、まあ今丸少の幹部として、まあ一生懸命打ち込んでいられる。
 ところが丸少に入った時点から、成績がずうっと上がっていって、全校で四番で今度は学業を終わらせて頂いたと。だからこれにはもう信心のない主人も、その「お前、合楽通いばっかりして」と言うわけに参りませんから、矢張りそれを黙って、いわゆる黙認する(笑)ほかにはないようにおかげを頂いておると。だからそういうおかげも頂けると同時にです、神様へその向けて子供、子供ながらもなら丸少なら丸少、まあグループ活動に専念すると言う事はね。
 いいですか神様が人間の幸せの鍵を握ってござると言う言を、もし親が確信でけたらね、全然問題じゃないです。「もうあんたんとこには勉強がでけんから、もう例えば中退で止めてくれ」と先生が言う様な事であっても、もうそんなこたあ問題じゃない。「もうそんなことなら一時ばっかり、丸少通いを止めちから、ちとばかり勉強しろ」てなんてん、もうこれは神様を信じきらない親の言う事です。
 この神様が幸福の鍵は握ってござる、でけたからでけなかったから、良い学校を出たから、成績が良かったからと言うて幸せになればですよ。ところがんなら今一般社会でもです、むしろそういうならまあ秀才タイプとでも言うですか、そういうのよりも人間がでけておると言う事を焦点に置いて、あの採用すると言う様な動きがある。これはどこまでも、まあ今の現代の世相と言う事を表したものでしょうけれども。
 私高橋さんの話を聞かせて頂きながら思たんです。ほんとにこの神様が人間の幸福の鍵を握ってござる、と言う事をです、ほんとに信じれたら、親も子もやはり信心に打ち込むということ、目先の成績が良かったの、悪かったのなんかに、一喜一憂しないこと。それで勉強せんでよいと言う事ではない。それで勉強してならおかげを頂いていくと言う事も、よしそんならそのために勉強がでけなかった、なら一年学校を落第した、例えばいたしましてもです、それがおかげの元になればいいじゃないかと言う事。
 それを信ずることが信心なんです。私は今日の御教えはね、そこんところが説いてある御教えだと思うんです。教会長の例えば早い遅いが、信者のお参りの早い遅いに係るぞという、もはっきりしたこれは神様の世界、おかげの世界を表現しておられわけです。だから子供なりにもです、例えば神様に向こうただけ神様が受けて下さってない筈はないと言う事。私はもう徹底した考え方というのは、あのそういう頂き方だと。
 だから高橋さんが、あのご挨拶の中にです、いうならこうしたなら信心に打ち込んで、子供ながらもこうしたグループ活動しておると言う言を、神様がみそなはさない筈がない、だから社会でもそういうならグループ活動でも、あのスムーズにでけるのを引き立てなさると言う事だが、神様は尚更の事子供ながらも神様、心を向けると言う言を神様が知らんふりなさるはずがない。
 問題は人間が幸福になることのために、いうなら信心もするのじゃないか、勉強もするのじゃないか、技術を身につけると言う様な事もそうじゃないかと。必ずしも技術が優れておるからとか、頭が良いからというて幸せになると言う事ではない。かえっていうならば頭だけが良い、頭脳が明晰と言った様なのは、採用の対象にならないと言う様な社会の動きがあると言う言を聞かせて頂いてです、神様のご覧になった目からは、もっというならば神様、いわば親が信ずる子供が信ずる。
 ここに子供の幸せを神様が、薄うになさるはずはないと言う事。「もう、うちんたあもう丸少にばっかり行ってから、大丈夫じゃろうかこげなこたあ」それは、神様を信じきってない親の言う事であります。先生が朝早いか遅いかと言う事は、信者が早い遅いに係る。先生が一生懸命なら、信者も一生懸命になる。先生が心を焦点にきれいに美しゅうなることに努めたら、信者もやはり美しゅう綺麗になることに努める。
 もうお道の信心は、なら心一つですべてを創るというほどしだから、いよいよ心に焦点を置いて、いよいよ清まろうじゃないか、改まろうじゃないかと、教会長が言う行き方になりゃ、信者もやはり改まる清まると言う事になるんだと。もう合わせ鏡と同じだと言う言をよく言われるが、そこが信じれることが信心だと思うんですよね。加減をすると言った様な言があってよかろう筈がない
 。信心もほどほどにと言う様な事のあろう筈がない。そこが信じれれるために、私は神様のいわゆる絶対性と言った様なものは、そ言う事を信ずることが、神の絶対性と言う様な表現で言う神様だと思うんです。この御理解はね、どこの教会に参ったからおかげが頂ける、どこの教会に参ったからおかげが頂ける神様は同じです。けれどもその神様を信じておる度合いが違うと言う事なんですね。だからお互いの神様を信ずるというならね、そりゃあ子供のことですから、さあその真心とかね。
 真とか言った様な事は分からんかもしれん。けれどもこと神様事というて、熱狂する熱心になる、合楽通いを楽しんでこうやって来る、それをなら親が親がとやこう言う様な事では「あんたは神様ばとやこういう位にしか信じていないんだよ」と言う事になる訳ね。子供がいうなら「合楽合楽」と言うて参りますね。子供の事ですから、お粗末どこにご無礼があるやら分かりませんけれども「あの様にして合楽に打ち込んでいくと言う事は、有難い事です」とお礼を申し上げれる位な父兄になりたいですね。
 何故かってこの神様が、なら人間の幸福の鍵を握ってござると信じれたら、それがでけれるのが、いうなら信心だと思います。昨日私は秋永先生のところの、秋永先生たちのおじいさんとおばあさんの、同じ式年が重なっておりましたので、いわゆるもう式年祭を、あの二柱の式年祭を、子供孫たち、曾孫たちまで全部集まりましてから、昨日霊祭を奉仕させていただきました。
 私は昨日特に感じたことは、結局守り守りの力とあるですが、例えば私が神様の世界で頂いておる世界、私が御霊の世界で(笑)まあ私の羽振りと言うかね、もう聞かせられれる範囲というものを昨日はっきり見せて頂いた感じが致しました。今合楽がね例えば、昨日宮崎の日向教会の滝口先生から、もうこんなに部厚い手紙が参りました。それには「今度、教師の研修会をあちらの教会で開かれた時に、もうとにかく教師の、教師でありながら合楽通いをするというのはもっての外だと。
 あんたがそういう事するならば、もう教会の他の全部の先生方が、あぁたん方とは付き合わん。いうなら村八分にするがよいかと。とにかく最近の宮崎の状況は、もうとにかく合楽へ合楽へというて、雪なだれのように雪崩をうって行く様な、情景がある。」ち書いてあります。ほんなことやっぱ、その雪崩をうって来るという、まあそりゃ信者、未信者併せてですけども、そりゃ記念祭ともなりゃ、やっぱ百六十名から来とりますからね、宮崎からだけでも。
 だからそんな言を聞いたり、ここの新聞なんかを見て、その宮崎支部の大祭のごひれいの模様なんかをね、あのう見たり聞いたりしたらやっぱ先生方としては、そうあるかもしれませんよね。そこでもうほんとに「あの合楽があなた方が言っとられる様な教会ではなくて、こういう先生でこういう教会だと、もうとにかく一見は百聞にしからず、一遍行ってみなさいと、私今度報徳祭で頂いてきておる先生のお説教を皆さん一遍聞いて下さい」というて、まあ聞かせられると言う位に熱心に、まあ説かれたけれども。
 てんで受け付けられる風じゃない。そこで「んなら私は村八分されてもかんまん。いわゆる今度の五月」、もう五月の言が書いてある、「五月の二日の御大祭には、もう私と家内で仕えます。だから合楽教会からまたあのお説教は、こちらの在籍の教師の方からどなたでもよいからまあやって頂く、こんな状態ですからやって下さい。私はもう腹は決めました」と言う言が、まあ今度の度のことは、申し上げたいことは山々ありますけれどもとこんなに沢山書いておられるけれどもそう書いてある。
 随分いうならば宮崎の方では、まぁあることないこと悪口が出たんでしょうね。かというとなら中近畿辺りにいうと、もうそれこそ私のことを「中興の祖」と言っているです。「中興の祖」というのは、例えば親鸞上人の御信心を、ほんとに全国的に広めたのは七代目ですかね、蓮如上人ですか、が言われます。やはり「中興の祖」という風に言われます。もうそれこそあの私としては、それこそ迷惑な様な事なんですよね、あのそういう表現は。それこそ金光大神を冒涜するような感じが致します。
 そんなことじゃないけれどもです、そのようななら熱意をもって、とにかく現在の金光教の衰微というか、の状態をね、いわゆる生き生きとした金光教にするには、沢山お徳を受けた先生方があり、沢山信者を擁しておられる先生方もおられるけれども、そこにはねいうならば指導原理というかね、いわば合楽理念的な理念を持たないといかん。そういう意味合いでなら合楽の場合は信心ね、今も申しますように、神と人との中から生まれてくるその御理解の素晴らしさがです。
 現在の金光教の立ち直りは、もう合楽の信心をもってする外はないと言う様に、極めたことを言っておられるわけです。だからこれが、全国にそういう広がりが拡がって行く時に、ほんとに助かりの理念に基づいた、教会が生き生きと生き返って来る様な働きにも、私はなると信じます。ですから人間の世界では、まだ半分は悪口を言いよる、半分は讃えよる、と言う様な状態にあるけれども、神様の世界、御霊の世界では、もうこれは厳然たるもんなんです。
 ですから合楽に改式のおかげを頂いておる御霊達の助かり様というならね、もうほんとに、あのほんとに有難いです。とりわけ秋永先生なんかというならば、まあ合楽では、いうなら、まあエリートコースを、におる人達です。秋永三人の兄弟たちのことを言うても、やはりそれぞれに、いうならば合楽とは切っても切れんような深い仲をだんだん作っていっておるわけです。そういう例えば働きの中にある御霊に、力がなかった、徳を受けていなかっても、ならば合楽という権威にかけてですかね。
 権威というよりも格式にですよね、格式にかけて。御霊達もやっぱ助かっておると。まあ御心眼に、私拝ませて頂くとね、『とにかく高官ですね、官庁に勤める、まあ偉い人達の住まわれるような、ずうっと屋敷、あのお屋敷街のようなところ』を頂いて、も素晴らしいそういう、あの車がこう行ったり来たりしたり、もう大きな門構えの家に。だから同じ東京なら東京市内にでもです、庶民の町、高官の町、特別な高級住宅と言った様なところがあるでしょうが。
 そういう所に合楽の、いうならば合楽に帰依をしておる御霊達は、そういう所におると言う事。勿論御霊ながらの精進も一生懸命さして頂いておる。これは眼には見えないけれども、いうなら神様の世界で、または御霊様の世界で合楽が頂いておる、一つの格式と言った様なものの中に皆さんの信心がある、今日の御理解で言うとです。守り守りの力というのがです、今眼に見えない世界のことを、ま聞いて頂いたですけども、眼に見えない世界に頂いておる合楽の格式というその中にお互いが。
 いうならば信心の稽古をしておる。また御霊の世界行ったらそういう世界に入って行けれると言う言がです、今日はここには説いてあると思うですね。守り守りの力によって、おかげが違うのだと言う言がそれなんです。ですからそういう一つの自負を持ってお互いが信心をさせて頂くと同時に、もう信心ばかりは、もうどんなに美しいことを言うてもですね、結局あなたの心次第なのだから、あなたの精進次第なんだから、あなたの辛抱力一つなんだから、そう言う所からまおかげがはっきりしてくるわけなんです。
 秋永一家のいうならば合楽で、まあ例えば教祖の御時代でもですね、いうなら佐藤とか近藤とか白神氏とかいうのは、教祖様のいうなら直臣であるだけでなくて、まあいうならばその時分の教団としての名門と言われたお家ばかり、九州の小倉といやあ、九州の名門といやあ、いうならば福岡とか久留米とか甘木とか、これは小倉の名門です。そういう意味でなら合楽でね、皆例えば私はよく総代さん方にでも言うんですけども「あんただん、もうほんとざぁっと思っちから信心がでけとるけん。
 総代になっとるてなんてんっじゃなかよ」と。もう総代から脱落すると言う様なこたあ、もう大変なことなんだ。そういう格式のあるところで総代というのじゃから、あちらへ行ってもやっぱそうなんだからね。だから合楽でなら何々会とか何々と、その幹部とか何々役をしておると言う事は、もう同じいうなら神様の世界、御霊の世界でそういう格を持って扱われると言う事ですから、いかに頂いておる自分の役柄というものをまじめに務め上げなければいけないかと言う言が分かる。
 なら合楽の信奉者というだけでも、あのいうならそういう格式のある(笑)いうなら中におかげを、それが今日は説いてある。守り守りの力によってこげん違うてくるわけです。合楽教会と言う言が、なら今全国的にですね、良い悪いは別として、そのそういう皆が、そういう良いとか悪いとかと言っておるいわゆる最中にあるんだけれどもです、悪いと言っておるのは判らんから言っておるだけのこと。
 竹内先生が言っておられるように、もうとにかく神様だけしかご承知でない世界、ここがほんとだ間違いがないんだと言うたら、問題はわざわざそれは宮崎から福岡辺り、いうなら合楽まででもです、道を求めて行くというその姿勢、そこにはここには求めて来れば来るものが、ここにはあると言う事。そういう中におかげを頂いておる。合楽だからと言うて、場合には肩身の狭い思いをせなければならんような場合すらある、宮崎辺りのような行き方で言うたらね。
 村八分に成る様な事になるけども、けれどもそれはほんとのことが判ってないからなんだ。神様の確信、のでけている、神様を信ずる力のない人達なんだ。丸少が「合楽、合楽」と言うて行く、あげなことでよかじゃろうか、勉強はどうじゃろうかと心配するぐらいの信心のところなんですね。だから子供ながらも、なら「合楽、合楽」と言うて行っておる限りは、親も心配はいらんと確信ができるくらいなね、信心を頂いて、今日の御理解は、ほんとの私が言いよることが分かると思うです。
 いうならば合楽の力、合楽の格式の中にお互いがある。 昨日最後に『こんな昔はあの焚物をこうやって【 】ごと沢山、もう素晴らしい花をね、あのビニールの薄いので中が見えるようなのでこう巻いて、それをこうくくってある』のを頂いた。どうしてビニールに、紙に包んでないじゃろうかと思ったら、ビニールでなかりゃ中が分かりませんからね。だからどういう花ああいう花という花が一目瞭然に分かる、そればってんこうしてある。こんなに沢山活けあげれる材料を持っておるのに活けあげない。
 それであの昨日の、あの花からあの御理解を頂いたんですけども、あの菊を中心に、あのヒバです檜の葉でまとめてある。そして中にはあの紫のアヤメじゃないけども、アヤメ一種のあのカキツバタか何か、あげんとがこう入れてある。で一番下にはこう金魚草で一番下がこうね。これがいうならば、あの今の秋永先生とこのおかげの様相だと、ヒバとか菊とかと言う事は、今あの合楽の信心と言う事であろう、その中になら紫の花のようであるけれども、これは実らないただ色ばっかりの。
 いうならば安心と言うてもね、そのやはり力が伴い、いうならそれに実が伴うとじゃなからにゃいかん。今例えば梅屋なら梅屋で頂いておるおかげは、金魚草のようなもんで、金魚というのは人間が作った魚という風に言われるが、あんたたちが作ったいうなら財産だと、神様から頂く財産というならやはり鯉のね、徳を金魚じゃなくて鯉の徳を頂いて、それに伴うようなおかげを頂くためには、折角合楽でこういうエリートコースを兄弟三人歩かせて頂いておるのだから。
 本気でもちっと、こんなにも沢山ある活けあげれると思うたら、活けあげれる信心をもっと頂いていこうとする、お徳を頂いていくためには、こういう花が自由自在に活けあげれる稽古を、稽古はでけっとても活けあげようとしない。というのがこんなにも言うならば丸くらけてあるごと沢山花はあるんだと。これを一つ一つ活けあげていったら、それこそ素晴らしいおかげにもなるだろうと言った様な事を頂いたが、これは秋永一家だけのこっちゃない。
 お互いの場合でも活けあげようと思ったら、そういう素晴らしい花の材料を花材というものを沢山頂いておる。それを信心でどう受けるか、どう頂くかどう活けこなすかと言う所に、信心があるわけですけれども、そういう信心を進めながら、神様を信ずる。自分が今ここをこう改まったら、自分がここをこう精進したら、おかげが頂けることは分かっとるけれども、その精進がでけんその辛抱がでけん。そこにいうなら一心発起することの、心のお繰り合わせを願わなければならない。
 この九十二節はねいうならば、昨日秋永先生が話しとりましたが、今度も大祭の時にたまたま応接間で、宮ノ陣の先生と二人になった。そしてもうこの頃その本部で会議があった模様をいろいろ話して、合楽の話がこうこう出た。そして「これはもうあんたまでの話しばのち、ここん先生はいうならば馬鹿んごたる先生ばってんね、(笑)あの大体取り巻きが素晴らしかてあそこは。信者が素晴らしか」っち。【 】されたら、もう腹ば抱えて自分な笑うたと言うわけなんです。
 したら「あんた笑うちから、あんたがことば言いよるとばの」っちてからその言わっしゃったという話を聞きましてね。なるほど言われてみれば、先生が馬鹿んごたあるばってんが、(笑)取り巻きがやっぱ合楽は素晴らしかと思うわけです。けどもまた本当の見方をするならです、先生が例えんなら馬鹿んごとしちゃるばってん、実際は馬鹿じゃなかじゃろと、やっぱ偉いじゃろ、偉いからこそ偉い信者が付いて来るんだと。
 今日の御理解はそこんとこなんです。どんなに偉そうに言うて、素晴らしい先生のごとしとったっちゃ、信者がつまらぁん信者ばっかりなら、その人の信心はつまらんと思うですね。どんなに偉そうなこと言うたっちゃ、信者が偉いとがでけんならば、そりゃつまらんと思うですよ、やっぱ。いかにんなら見かけは馬鹿んごとしとったちゃ、だからもうとにかく合楽の先生は馬鹿んごたあるで通っとるごたある風ですね。「そげん言やあ私も思い当たることがあるばい」ちて、昨日話したことじゃった。
 今度あの近畿からどうでもこうでも話しに来てくれと言う事でもです。その私がその馬鹿んごとというその評判が流れとるもんですから、そしてもう沢山の人を前にして話すてなんちゅことはでけんかもしれん。だからもう来て頂くだけでよかちゅ。そしてお茶どんお茶ならお茶頂きながら、先生の言われる話を、それだけでもよかち。もう先生がわざわざ壇上で話さにゃ、それもなからなそげんでもよかと言う言を言う、この頃言うんですよ。折角行くならこっちはお話も(笑)しよと思いよるばってん。
 向こうはねその大体が馬鹿んごたあるとち聞いとるもんだからね、だからそれけんあの人がいやいやちてから、こうやってこう言いよるとじゃろと、だからもう来て貰うだけでええけんでとこういう風に言う。やっぱ(笑)そういう評判が流れているとじゃろとちて、昨日話しとたんですけどね。けれども金光様の信心ばっかりは、そうですばい。家うちの息子のどうこうのこうのち言うけれどそれは親が悪か、とこう決めつけていかなきゃ信心の進まんです。
 家の家内がとか、親がとか、例えば、んなら家の信者の悪口を言いよることは、自分がいかにつまらんかということをのんぼり向いて唾を吐くことと同じことです。だから先生は馬鹿んごとしとるばってん、信者は偉いということは、見かけは馬鹿んごとしとろうばってん、実際はやっぱ偉いからこそ偉い信者が、んならできよるんだという風に、だからそこんところを秋永先生は腹を抱えて笑おたとこう言うのです。
 馬鹿んごたある、いうならば先生のところにそんなに素晴らしい、んな取り巻きができるはずがない。中心がいうならば、素晴らしい大将のところには弱卒がいないと、昔から言われておるようなもんです。ですから私はそう思うです。ですからなら皆さんの程度です私の信心は。だから皆さんの(笑)状態ば見よると、はあ我が信心なあれくらいばいのと思うから、私は皆さんにひとっつも満足しとらんです。
 ほれでもこんな信者がおってくれるけん、私は喜んどるという信者は、ひとりもおらんですまだ。だからこれは私が、んなら高めるよりほかにはないと思うとるだけのことです。そういう頂き方思い方をこの九十二節は説いてあると思うんですね。いいですか朝が早い遅いは、信者のお参りの朝早い遅いに係る。信者がつまらんのじゃない、先生がつまらんのだと分れと言う事。
 そこでなら昨日の丸少の感謝の夕べから、引用してまあ聞いて頂いてんですけれども、そこを信ずると言う言が信心ならです、なら子供たちが「合楽、合楽」というて通うて来るて言う事には、もうそれこそもう微塵も、揺るぐこともいらなければ、心配することもいらん。人間の幸福の鍵を握ってござるのは神様だから、とそこが確信できる位にならなければ、私は金光様、合楽の信心をほんとに頂いておると言う事は、言えないという風に思うですね。
   どうぞ。